NHKは被告との手紙のやり取りを記事にしています。[外部記事]
今回は、価値と存在について
手紙の中身
手紙の中身を引用します。
- 障害者を育てることは、ばく大なお金と時間を失うことにつながります
- 意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだ
- この人たちを殺したらいいんじゃないですかね?と声にしました
- 重度・重複障害者を肯定することはできませんでした
限られた情報からの想像ですが、
人の命を「コスト」と「機能性」でしか考えていないように思えます。
機能性という言葉が適切かは悩みましたが、他に語句が思いつかないのでこのまま進めます。意思疎通が取れる、取れないという軸を表すのに機能性という語句を用いました。
極論すると、コストがかかって意思疎通のできない人は消し去っていい。生きている価値が無い。そういう考え方なのかな、と。
専門家の見解
やや長いですが専門家の見解を引用します。
前田教授は「植松被告は恣意(しい)的に人間の尊厳が認められる人と、認められない人を作り出していて、それ自体がすべての人間に尊厳があるという考え方に反している。この社会にとって、障害のある人たちはマイナスだという意識が非常に強く、その部分だけが前面に出て行動につながり、自分の行動を正当化している」と指摘しています。
そのうえで、前田教授は「1年たっても『意思疎通のできない人間に生きる価値はない』という思想が残っていて、相当根強い差別意識が心の中で固まっていると考えられる。自分たちの側にある種の正義があるという認識を持ってしまうと、なかなか、それを改めるチャンスに恵まれにくい面がある」と述べました。
差別意識なのか、それとも、偏狭な正義の意識なのか・・・
前田教授の「自分たちの側にある種の正義があるという認識を持ってしまうと、なかなか、それを改めるチャンスに恵まれにくい面がある」という言葉は重たいです。
差別はよくないもの、正義は正しいもの。
そういう思いを持ちますが、場合によっては、両者の間にはそれほどの差は無いのかもしれません。誤った正義感は自分も他者も傷つける恐れがありそうです。
思うこと
殺傷事件では、障害者を支援するコストと意思疎通の機能性で、尊厳が認められる人間と、認められない人間に分けました。それが不幸につながりました。
同じように、ある人の主観的な評価軸で、「存在が認められる人、もの、サービス」と、「認められない人、もの、サービス」を分けます。
そうしたとき、その人にとって認められない方を、生きる価値が無い、存在する価値が無いと切り捨てられるものでしょうか。
価値観の押し付け、差別意識、正義があるという意識。
気をつけないと自分も他者も不幸にしてしまいそうです。
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人の命をコストと機能性のみで考えるとすれば、
植松被告は
・他人の意見を聞き入れず他人と意思疎通が図れない
・刑務所の中で養うことは(社会にとって)莫大なお金と時間を失う
ことになり、植松被告の意見
「コストがかかって意思疎通のできない人は消し去っていい。生きている価値が無い」
を尊重すれば被告自身が生きていてはいけない人間ですね(汗)。
その点について植松被告の意見を聞いてみたいです。
※3510:塩蔵さん
人の命をどう考えるかは難しい問題ですね。
被告の意見は聞いてみたい気はします。
本文の補足ですが、この事件について思うこと
私は尊厳死や安楽死を中立的に考えています。
本人、家族、家族のような強さで結びついた人が、熟慮の末に尊厳死や安楽死を決断するのは肯定します。ただ、今回の事件のように、関わりの薄い人が勝手に決めるのは違うと思いますね。